2023年2月13日、松本零士先生が星の海に旅立ちました。
松本零士ブーム以前より松本零士先生の描く数々の漫画作品に魅了されて来たファンの方々はもちろん、子供時代に松本零士ブームを経験した多くのおじさん、おばさんも松本零士先生の喪失感は計り知れないものでしょう。
デビュー前からの親友であるちばてつや先生、銀河鉄道999でのお仕事以上にお付き合いのあった星野鉄郎役の野沢雅子さん、メーテル役の池田昌子さんなど、友人・関係者の方々から多くのお悔やみが発表されていますが、松本零士先生の熱狂的な大ファンである島本和彦先生のように未だコメントを発表することの出来ない程のショックを受けている業界関係者の方々も多いようです。
(追記)
2月26日、朝日新聞にて島本和彦先生インタビューの追悼記事が掲載されました。
『故・松本零士さんの作品の魅力やその功績について、島本和彦さんにお話を聞きました。本日(26日)朝刊文化面に追悼記事が掲載されています。紙面での見出しは『「ヤマト」「999」SFの未踏域へ』。』
未だコメントされていないと言えば、松本零士先生の逝去のニュース後も何もコメントがされていない気になるTwitterがあります。それは宇宙戦艦ヤマト2205製作委員会の公式Twitterです。リメイク版「宇宙戦艦ヤマト」には松本零士先生が全く関わっていない(関わることが出来ない)とは言え、かつて「宇宙戦艦ヤマト」の大ブームを牽引した主要スタッフであった松本零士先生への何かしらのコメントが現在の宇宙戦艦ヤマト公式からあるものと思っていました。
しかし、「宇宙戦艦ヤマト2202」のBlu-rayBoxの発売に関するイベント告知はされるものの、未だ松本零士先生に関するコメントはされていません。それほどまでに「宇宙戦艦ヤマト」の著作権問題が今でも禍根を残しているのでしょうか?
(追記)
3月14日に開催された「2202」BD-BOX発売イベントにて登壇者と会場の全員で松本零士先生へ黙祷が捧げられたこと、そして、お悔やみのツイートが宇宙戦艦ヤマト2205製作委員会のTwitterで発表されました。
今回は、最終的には裁判で西崎義展氏が「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を有すると決着した松本零士先生と西崎義展氏の著作権トラブルについて振り返ってみたいと思います。
今回の記事は「宇宙戦艦ヤマト」企画時の方々の証言が多く書かれている『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男・西崎義展の狂気』(牧村康夫・山田哲久共著)、『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(豊田有恒著)を参考にしています。
まずは「宇宙戦艦ヤマトをつくった男」では、1974年(昭和49年)「宇宙戦艦ヤマト」テレビ放送の前年1973年、「宇宙戦艦ヤマト」製作に向けての企画段階についての証言が書かれています。
当時、虫プロ倒産後にオフィス・アカデミーに移籍していた野崎欣宏氏によると、73年3月頃、西崎義展氏よりSF作家である豊田有恒氏の作品を研究するように言われ、「戦艦を宇宙に浮かべたい」という発想をもとに西崎義展氏、豊田有恒氏、山本暎一氏(監督)、藤川圭介氏(脚本)、そして野崎氏も加わり早くも同年夏には西崎氏の自己資金による企画書が完成していたそうです。
メンバーが作成した企画書は55ページに及び、1話分の脚本サンプルもあり、基本ストーリーはほぼ完成していましたが、この企画書では「ヤマト」は通常は岩塊を纏い小惑星に擬装した宇宙船でした。
小惑星に擬装した宇宙船は戦闘時になると纏っていた岩塊を吹き飛ばし、宇宙戦艦になるという設定は企画開始時に軍艦を取り扱いたかった西崎氏に対し、脚本家の藤川氏が「どうせ軍艦を出すのであれば、軍艦が空を飛ぶような発想にした方が面白い」ということになり、「軍艦であれば戦艦大和だろう、空ではなくて宇宙で飛ばそう」という発想からと「宇宙戦艦ヤマトをつくった男」には記載があります。
しかし、西崎氏からSF設定、原案を依頼された豊田氏の著書「宇宙戦艦ヤマトの真実」によると、豊田氏の作成した最初の設定原案ではイスカンダルまでの長い旅路(この設定のベースは西遊記!)を小惑星をくり抜き、その内部に居住区画と光子エンジンを隠した宇宙船(アステロイド・シップ)で向かうというもでした。つまり、豊田氏の原案では擬装した小惑星がイスカンダルに向かうだけで、擬装された軍艦の設定はありませんでしたので、まして、戦艦大和が宇宙戦艦として航海するという設定は豊田氏のあずかり知らない設定だったのでした。
豊田氏の作成した設定をたたき台として、企画書が作成されるのですが、豊田氏が原案提示後に出席した会合では、既に小惑星から軍艦大和がイスカンダルを目指すことになっていて大変驚き、大反対をしたそうですが、軍艦大和案は松本零士先生の提案だと言われ(西崎氏の方便の可能性もありますが…)承諾したと述べられています。
また、この73年の企画書作成時のメンバーに松本零士氏はいなかったのですが、豊田氏の著書によると最初に西崎氏からSF設定・原案を依頼された際に「漫画は松本零士に依頼して承諾をもらっている。」と言われたと書かれています。(西崎氏のブラフの可能性もありますが、西崎氏は松本零士先生と既にコンタクトしていた可能性もあります)
前述の野崎氏の陳述によると『オフィス・アカデミーによる製作が始まり、白土武氏や芦田豊雄氏などの作画監督、槻間八郎氏を美術監督に指名し、キャラクターデザインなどを発注していた時期に突如、西崎氏は背景美術の宇宙に対して不満を述べ出しました。野崎氏がたまたま松本零士先生が深みのある宇宙を描けることを知っていたことより、宇宙の背景美術に納得しない西崎氏へ松本零士先生のイラストを見せたところ大変気に入り、槻間氏の監修として背景や宇宙の色などの色彩設定を依頼すべく松本零士先生の練馬の自宅へ西崎氏と企画書を持参して伺った。』とあり、この時が宇宙戦艦ヤマトに松本零士先生が初めて関わった時のように記述されています。
いつ松本零士先生が「宇宙戦艦ヤマト」に初めて関わることになったかに関して、上記のように豊田氏と野崎氏の陳述の間で相違が発生していますが、豊田氏は全て個人的に西崎氏から言わことを述べていますが、野崎氏の陳述は製作途中で実際に起きた出来事であることより、豊田氏の陳述は西崎氏の得意なブラフであり、実際は野崎氏の陳述が正確ではないかと思われます。
ところで、野崎氏によると企画書を見た松本零士先生は西崎氏との条件交渉を経て美術設定デザイナーとしての参加を快諾することとなりますが、松本零士先生の仕事は宇宙の色彩設定にとどまらず、宇宙戦艦ヤマトの船体デザイン(クリーンナップはスタジオぬえ)やキャラクターのデザインにまで段々と関与することになるのでした。
そして、しばらくすると監督の山本暎一氏が別の仕事のため「宇宙戦艦ヤマト」の監督が出来なくなるという問題が発生しました。そこで、西崎氏の提案で話題性を出そうと松本零士氏に急遽、監督の肩書きを付けることとなったというのです。この一件が後々の著作権裁判に繋がることとなるのでした。
(つづく)
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