アニメージュの愛読者だった頃
全国各地で順次開催されている「アニメージュとジブリ展」が9月17日より福島会場で始まりました。(東京から須賀川への日帰りプランの記事はこちら)
この展覧会は「一冊の雑誌からジブリは始まった』とあるようにナウシカの成功、スタジオ・ジブリの設立、ラピュタ公開までを雑誌「アニメージュ」と共に振り返っていますが、この記事では当時の一読者だったことを踏まえ、まだジブリが設立されていない時期であるアニメージュが創刊した昭和53(1978)年、昭和54(1979)年頃のアニメージュを個人的に振り返ってみました。
ひとつのアニメからアニメージュは始まった
昭和52(1977)年8月に劇場公開の宇宙戦艦ヤマトの大ヒットを受けて同年9月に発行されたテレビランド増刊「ロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト」が当時40万部という大記録を打ち立てたことより、翌年の昭和53(1978)年5月26日に別冊テレビランド「アニメージュ」7月号が徳間書店より創刊されることとなりました。定価は当時では少々高めに設定された580円、アニメージュ最新号の定価が1100円ですから現在の定価の半額程の定価でした。
記念すべき「アニメージュ」創刊号の大特集は当時テレビ朝日系列で放送されていた「宇宙海賊キャプテンハーロック」、緊急取材報告は同年8月に公開される「さらば宇宙戦艦ヤマト」についてでした。創刊号の表紙を見てもお分かりのように、昨年の宇宙戦艦ヤマトの人気を背景にしたヤマト推しの雑誌となっています。
創刊号の内容については2019年6月3日のアニメージュプラス編集部の記事に誌面の一部が画像付きで詳しく掲載されています。記事のタイトルが『はじまりは『さらば宇宙戦艦ヤマト』! アニメージュ創刊号を紹介!!』とあるのが、今回の「アニメージュとジブリ展 一冊の雑誌からジブリは始まった」と似通っていて面白いですね。
この記事によると、『(創刊号の)内容と企画ページの発想は、後々のマニア向け映像専門誌のベースになるものでしたが、その方針は、アニメーションの専門家ではなかった編集者の、読者と同じ目線でアニメーションの基礎や面白さを知ろうという姿勢から出たものです』と書かれています。
徳間書店へ入社し、アサヒ芸能企画部からアニメージュ編集部へ異動したアニメーションの専門家ではなかった鈴木敏夫氏が業務の中で宮崎駿氏と出会い、スタジオジブリを設立し、そして、日本アニメ界を代表するようになり、世界中で知られるようになるのですから世の中は面白いですね。
昭和53(1978)年のアニメージュ各号は
創刊号、創刊第2号の表紙は当時公開間近の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の表紙でした。さて、創刊第3号の表紙の作品は何だったのでしょう?答えはこちら↓
アニメージュ創刊第3号の表紙は今でも続く日本テレビ系列「24時間テレビ愛は地球を救う」の第1回目(昭和53(1978)年8月27日)の午前10時から放送された「100万年地球の旅バンダーブック」でした。「バンダーブック」は手塚プロダクションをアニメ制作の損失により失ってしまい、「もうアニメはやらない」と宣言していた手塚治虫先生が再び取り組んだ世界初の2時間テレビアニメでした。久々の手塚アニメということでアニメ業界での期待が大きかったのかもしれませんね。ちなみに同年8月には「さらば宇宙戦艦ヤマト」が劇場公開されたので公開記念ポスターが付いています。
創刊第4号は新番組情報のひとつ「科学忍者隊ガッチャマンⅡ」の表紙でした。目次を読むと『あのガッチャマンが帰って来た』と説明書きが書かれています。他の新番組情報の説明書きは『これが1、2話フィルムだ!!』銀河鉄道999、『映画とはこんなに違う』宇宙戦艦ヤマト2とあり、TV版の「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト2」の特集が組まれていました。
アニメージュ第5号は「スター・ウォーズ」から続く当時のSFブームを受けてNHKで放送された「キャプテンフューチャー」が表紙でした。「キャプテンフューチャー」の放送時間枠の前作が宮崎駿氏の「未来少年コナン」でしたので、絵柄が大きく変わったことに驚いた思い出があります。
アニメージュ第6号の表紙は長浜ロマンロボットシリーズ「コンバトラーV」「ボルテスV」に続く「闘将ダイモス」でした。特集は前号から引き続きTV放送されていた「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト2」そして今号の表紙の「闘将ダイモス」の3本立てでした。
創刊翌年の昭和54(1979)年のアニメージュは
昭和54年は4月から「機動戦士ガンダム」が放送開始ですが、放送開始時にはガンダムブームにはまだ火がついていません。「機動戦士ガンダム」の表紙がアニメージュに登場するのは9月号からです。
「宇宙戦艦ヤマト」の西崎義展氏が制作総指揮する劇場版「海のトリトン」(富野喜幸(当時)監督)の7月公開に伴ってアニメージュ創刊1周年である7月号と8月号の表紙が「海のトリトン」であるのが興味深いですね。後にアニメージュの発行元である徳間書店がアニメージュ創刊の要因となった「宇宙戦艦ヤマト」の西崎氏ではなく、宮崎駿氏と手を組むようになったのは鈴木敏夫氏が徳間書店の社員であったことが大きな要因ですが、当時の徳間社長と西崎氏の関係が良好では無かったことも大きいでしょう。(『宇宙戦艦ヤマトをつくった男 西崎義展の狂気』より)
昭和54年8月はアニメブームを確固たるものにした大ヒット作「銀河鉄道999」劇場版が公開されたことにより「銀河鉄道999」が誌面で大特集となっています。
そして、ついに10月、11月号にて初めて宮崎駿作品の表紙が登場します。この時に鈴木敏夫氏は取材を通じて初めて宮崎駿氏と会ったということです。まさに「運命の出会い」ですね。
ちなみに「風の谷のナウシカ」連載開始号は
ジブリの原点である「風の谷のナウシカ」のアニメージュでの連載開始は創刊から4年程の1982年2月号でした。その2月号の表紙は「風の谷のナウシカ」ではなく、1982年1月に公開された宮崎駿氏の盟友である高畑勲監督・脚本の「セロ弾きのゴーシュ」でした。後日、ジブリを設立する大きな要因となる宮崎駿氏も制作に関わった「柳川堀割物語」の監督・脚本である高畑勲氏の作品の表紙というのが運命じみたものを感じられますね。
1984年のアニメージュの表紙は12ヶ月中の4ヶ月が「ゴッドマーズ」の表紙でした。美形キャラクターが人気の作品でしたが「ガンダム」人気には及びませんでした。
そして、翌月の4月号は「機動戦士ガンダムめぐりあい宇宙」3月13日公開特集号でした。ガンダムブームがピークの時期ですので、ナウシカのヒットはまだまだこれからでした。
さいごに
「宇宙戦艦ヤマト」から始まった「テレビマンガ」から「アニメーション」へという流れの中で情報に飢えていた当時のアニメファンへ「銀河鉄道999」「機動戦士ガンダム」等のコンテンツを定期的に紹介したアニメージュの貢献度はたいへん高いことでしょう。そして、アニメーションが日本文化のひとつとなって世界に知られるようになった今、素晴らしい作品を生み出したスタジオジブリの功績も計り知れません。この2つの奇跡を感じることの出来る今回の「アニメージュとジブリ展」へ是非とも行くことをお薦めします。
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