先日、10/6(日)に開催された「宇宙戦艦ヤマト」放送50周年記念上映会にて庵野秀明氏、出渕裕氏、氷川竜介氏のスペシャルトークイベント中に庵野秀明氏が代表取締役を務める株式カラーが「宇宙戦艦ヤマト」をベースとした新作アニメ映像を制作する権利を得たことを明らかにしました。
株式会社カラーは西﨑彰司氏が代表取締役を務めるボイジャーホールディングスから「宇宙戦艦ヤマト」をベースとした新作アニメ映像を製作する権利を付与されたほか、東北新社から著作権の利用について許諾を得たとのことで、平たく言うと庵野秀明氏が「宇宙戦艦ヤマト」を製作することが出来るようになったと発表したのでした。
今回の発表により庵野版「宇宙戦艦ヤマト」のことを今までの庵野作品と関連付け「シン・宇宙戦艦ヤマト」と多くのファンも言い出し、早速、賛否両論がされるようになりました。
詳細はまだシークレットということですが、2025年からのプロダクション開始を目標に企画を進行中とのことで、早くもファンの間では庵野版「宇宙戦艦ヤマト」の内容について推測が始まっています。
そこで、この記事でも庵野版「宇宙戦艦ヤマト」を昔のエピソードを振り返って推測してみたいと思います。
まず、今の庵野秀明氏があるのは50年前の中学2年生の時の「宇宙戦艦ヤマト」との出会いであるということです。このことは昔の出版物や今回の「宇宙戦艦ヤマト」放送50周年記念企画そして今回の株式カラーからの発表でも公言されており、庵野氏の根底と言っていいでしょう。
話がだいぶ逸れてしまいますが、先日10月4日に放送された「タビフクヤマ」を見ていると歌手の福山雅治さんが中学時代に好きだったアイドルを語るコーナーがあったのですが、福山さんは当時1984年デビューの少女隊の藍田美豊さんのファンだったそうです。すると、それから「時が流れて、4、5年前くらいにCMを見ていたら、なんかすごいかわいい子がいると思って、この子誰なんだろうと思って調べたら、藍田さんの娘さんだった」ということを明かしていました。
さらに福山さんは「何がびっくりしたかって、中学とかそれくらいの時にときめいたものって、音楽でもファッションでも何でもそうだけど、地続きなんだなって思って、そこにびっくりしたんです」とイケメンなボイスで語っていました。
お気づきのように、福山雅治さんも庵野氏と同じように中学時代の『ときめき』にやられてしまっているのです。もしかしたら世の中の人々は中学時代に熱中したものがいつまでも根底にあるのかもしれませんね。
話を「宇宙戦艦ヤマト」と庵野秀明氏に戻しましょう。
中学生以来、画用紙やノートに宇宙戦艦ヤマトを描きまくっていた庵野氏は大学生になると、アマチュア時代の1981年の「ダイコンフィルム」のように「宇宙戦艦ヤマト」を自分の製作する作品中にヤマトを取り入れるようになっていきます。そしてガイナックス時代の1988年の「トップをねらえ」ではヤマトのシーンの数々をオマージュをすることによって商業ベースでも作品上にヤマトを取り入れ庵野氏のヤマト愛を表現しました。そして、1990年レイアウト、音響、タイミングなど、こだわりにこだわったヤマトオマージュの最高傑作である「ふしぎの海のナディア」が発表されたのでした。
↓こちらは両作品の比較をしてくれている素晴らしいYoutubeです。
このガイナックス時代に西崎義展氏から「ガイナックスで「宇宙戦艦ヤマト」を作らないか」という誘いがあったことが岡田斗司夫氏の著書「遺言」(2010発行)にて明かされています。
西崎義展氏から名指しで呼ばれた庵野氏と岡田斗司夫は西崎氏の事務所へ赴くと、西崎氏はデスラーのような挨拶もそこそこに庵野氏に「『ヤマト』はねぇ、お前の好きにしていいよ」と言い出したそうです。
庵野氏はその言葉に「本当ですか!」と喜び、「俺の好きにしていいんですね」と西崎氏に言うと、西崎氏は「もう好きなようにしていいよ。あのねぇ、俺はねぇ、作りたい人に作品を任せるのが、その作品にとって幸せだと思うんだなぁ……美奈子も俺が幸せにしてやったんだ」と、何故か、昔1987年頃に西崎氏がプロデュースしたアイドル本田美奈子さんの話も踏まえながら答えたそうです。
好きにしていいって言われて大喜びの庵野氏は「僕は『ヤマト』をこういう風にやりたいというビジョンがあります。それは最初のシリーズの『宇宙戦艦ヤマト』をあのまんまやることです。主人公は古代進です。出来るだけ松本零士さんのあのキャラのまんまで、メカデザインもあのまんまでやらせてください」と猛烈な勢いで語ったそうです。
すると、西崎氏はすごく不機嫌になり、西崎氏の言う「好きにしていい」は『アニメーションは庵野氏が思う通り作ってくれていい』という意味だったことより、 結局、GAINAXでの『宇宙戦艦ヤマト』は立ち消えになったそうです。
その 一番の理由は庵野氏が「昔の『宇宙戦艦ヤマト』をやりたい」って言ったのに、 そのままやらせて貰えないということ。 もう一つは、庵野氏が本当の意味で監督をやらせてもらえるわけじゃ無かったこと。 これが大きな理由」と述べられています。
さらに、「『宇宙戦艦ヤマト』、凄くやりたかったんですよ。 庵野氏はほんとに昔の『宇宙戦艦ヤマト』とコンテまで同じで、 同じでありながら自分の演出とか構図を微妙に変えることで、 全く新しい『宇宙戦艦ヤマト』をやりたいと、ずーっと言ってたんです。」とも述べられています。
岡田氏は著書でシン・エヴァンゲリオンを例にして「 シン・エヴァンゲリオンは絵がかなり良くなって、構図も大分変わって、新キャラも登場するし、 これまでのキャラクターの解釈もどんどんかわっている。 あのエヴァの新解釈と同じ方針で、庵野君は『ヤマト』をやりたかったんですよ。 「全く同じにします」と言いながらも、庵野君の個性がムンムンするものになって、 凄く面白い物になったんじゃないかな。」と庵野版「宇宙戦艦ヤマト」を当時期待していたことが書かれていますが、「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」を経た今、岡田氏の心境はいかがなものでしょう。
兎にも角にも、1990年代初め庵野氏が「宇宙戦艦ヤマト」を製作するチャンスがあった時、庵野氏のビジョンは旧作「宇宙戦艦ヤマト」と同じものを作りたいという気持ちだったわけです。
↓「遺言」名著です。
さて、その数年後、1996年に『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む西崎義展氏が有する著作権を担保にしてバンダビジュアル(現バンダイナムコアーツ)と3億円の金銭貸借契約を、東北新社と著作権を譲渡する契約を結ぶも、1997年ウエスト・ケープ・コーポレーションと西崎氏は破産をしてしまい、また、西崎氏は1997年末と1999年に逮捕されてしまいます。(「宇宙戦艦ヤマト」著作権についての当ブログでの詳しい記事はこちら)
また、1999年の逮捕後の服役中には松本零士先生との『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ著作者裁判も起こり、宇宙戦艦ヤマトの新作を製作することが困難な状況となります。
そして、2006年、西崎義展氏の出所を機に「宇宙戦艦ヤマト」の新作が具体的に動き始めます。それは「宇宙戦艦ヤマト復活編」「SpaceBattleship ヤマト」「宇宙戦艦ヤマト2199」でした。
(続く)
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